なり、飯能の歴史研究に大きな足跡を残している。

昭和初年になると、皇国史観の発揚のため、学校教育の場で歴史教育を行うべしとの声が強くなり、各学校で郷土史の編さん事業も行われている。

昭和八年十二月、第一飯能尋常高等小学校、第二飯能尋常小学校編の「郷土の資料」が発刊されている。これには「吉田筆吉氏の飯能町誌稿本を全部拝借した」とのことわり書きがあり吉田筆吉の影響大であった。

項目ごとに教員が分担執筆しているが、それぞれの分野はつぎのようである。
郷土史 富沢実 石井正之助
地 理 新井清一 稲村真一 富沢実
教 育 杉田清五郎
経 済 山田定秋 田橋久男
風 習 伊藤祐春
以上の人達により、三二一ぺージのガリ版刷りのものを五八冊出版したと書かれている。当時の校長は小林真一であった。

その後、吉田筆吉の手になる私家版「飯能郷土の誌」が出版されたのが昭和十年十月、また、そのころつくられたと思われるものに「精明村史稿」(黒井石竜編)や「南高麗村誌」(不明)があるが、いずれも小学校の教員が執筆したと考えられる。

これらの業績をさらに発展させ、集大成したものが昭和十九年に刊行された「飯能郷土史」である。

太平洋戦争の末期、物資も不足し、空襲警報の発令も日常的な危険を冒し、よくぞ六一四ぺージに及ぶ大分な史書を緻密な筆致で発行できたと、感心するよりも驚嘆に値することである。

発行者は「飯能翼賛壮年団」とあるが、実質的には昭和八年の「郷土の資料」と同様、飯能第一国民学校の先生方が執筆したもので、なかでも中心となって執筆したのが富沢実であった。

前述の武蔵野会よりも後に設立された「埼玉郷土会」(埼玉史談の前身で、昭和三年に埼玉県史編さん事業が開始され、それの研究機運を醸成するためにつくられた会)の調査の高まりとともに、富沢の果たした役割りは大きなものがあった。

この書は、いまでも飯能の歴史を総合的に詳述した唯一のもので、飯能市史の大いなる参考図書ともなっている。

これ以後の歴史出版物にはつぎのようなものがあるが、それぞれ視点の異なった特色のあるものである。
武州高麗郡中山村記録 中藤栄祥著 昭和四一年
飯能の明治百年 小松崎甲子雄著 昭和四三年
飯能人物誌 人物誌編纂委員会 昭和四五年
東吾野郷土誌 東吾野郷土研究会 昭和四五年
昭和の飯能自治史 小松崎甲子雄著 昭和四九年

このほかに異色のものでは「小説飯能戦争」(平山盧江)や説経節の「飯能の嵐・飯能の重忠謹」(大野嘉太郎)などあるが、これらは歴史とは離れるので書名の紹介だけにとどめよう。

また、各小学校の歴史記録、「武蔵野線沿道案内」(大正八年、板倉敏夫)や「武蔵野鉄道沿線名所案内」(昭和三年、横山雅三)といった武蔵野鉄道(現西武鉄道)沿線の観光案内の中で、随所に飯能の歴史が語られているが、本の性質上体系化された歴史書ではない。

なお、直接歴史の編さんを目的としたものではないが、昭和三十三年四月二十日付で第一号を発行し、以後年に三〜六回発行が続けられている飯能市教育委員会の「文化財時報」の果たした役割も大きい。

内容は多岐にわたり、多くの研究者の発表の場となり、文化財保護思想の昂揚はもとより、歴史研究の礎ともなっている。

以上、飯能の歴史研究のあゆみをたどってきたが、これらの研究を土台として市史編さん事業が進められてきたという思いが深い。先人の足跡大なるを思うのである。(事務局)

最終号発行にあたって

昭和五十六年から六年にわたって、市史編さん事業へのご理解とご協力をいただくために、広報折込記事「市史編さんだより」を掲載して参りました。

事業はすでに、予定された資料編の全巻を完行し、通史編の発行を残すのみとなりました。

そこで、この号をもって最終号とすることにいたしました。この間、ご愛読いただきましたみなさんから「あの記事はおもしろかった」とか「あそこの内容はちょっと間違っているのでは」などという声も寄せられ、スタッフ一同一喜一憂して編集に取り組んで参りました。

わずかなスペースでの、わずかなコンタクトではありましたが、多くの愛読者のみなさんに感謝を申しあげ、市史編さん事業が完了する通史編の発行まで変わらぬご愛顧をお願いして、筆を措きます。

編集後記

「○市史の編さんがはじまった頃、「四四十六年」つまりこれを仕上げるには十六年かかるかも知れないということだった。それは他市でもそうであったと聞いている。

○ところが、ほとんど時を同じくして、この事業にとりかかった他市から、その締めくくりともいえる「通史」が、つぎつぎに編さん室に贈られてきている。

○本市でも、「文化財」編からはじまり、十三冊に及ぶ資料編の集成、「通史」の執筆がほぼ半ばに達し、ようやく大団円を迎えようとしている。その間、ともにたずさわってきた人で、故人となられた方もいて、思えば長い道のりであったと思う。

○この「編さんだより」も、五十六年五月の第一号から、数えて二十四号、これで終刊ということである。

○ここまで至りついて思うことは、「これですべてが終わりではない」ということである。たとえば、極めて史料に乏しい中世のことなど、これからどんな発見があるかも知れない。史実を追い求めていく道、それはどこまでも続いていくことだろう。
編集委員 島田欽一