母親の心情が切々と伝わるこの手紙を持って、おさとがどこの屋敷に奉公したのか、どんな奉公であったかは分からないが、時代は、いくつかの関連文書から、文化、文政期(一八〇四〜一八二九)のもののようである。

(5)京都からの手紙
秋冷之節二御座候得とも其表各様弥御機嫌能御盛勤之よし目出度奉存候
次二當方無事二御奉公相勤申候
乍憚御安心可被成下候
且先前申送り候馬場喜八大坂表迄御供仕候へ共御前様御帰京二付當月十五日上京仕候
其段御安堵可被下候
且又當春下畑村吉沢氏上京二付其節得与相頼置其後毎々愚書も差送り候得共村ゟ(註:(より)変体仮名)今何之御沙汰も無之候
尤御用人夫等も相懸り御難義之段兼而聞入候得共我々迚も長々之御奉公 殊二諸式高値二付諸掛り等多分入 誠以而困入申候
何卒此度代り人足御登し可被下右之段別而御頼申上候
尤近頃風聞二承り候得者御領知一同廻状之趣二我々二御手當金弐両弐分つゝ水増有之候由二御座候得者 我等方二おいてハ御増金杯有之不申候
尤去年以来者月々弐両壱分つゝ相渡申候処
當春より此内へ壱分余り加へ都合弐両弐分余相渡り申候
右之内二而諸式自分賄二而中々以而弐両弐分位ニ而者漸小入用等も調兼候間 此度代り人是非共御登可被下候
右否哉九月廿五日迄二御返事嶋屋飛脚を以而直様御越し可被下候
若又返事延引相成候而者両人之内壱人 内 々御除願帰国可仕候間左様御承知可被下候
尤返事之模様二付而者我々迚も其積りも有之候間 呉々も返事延滞二相成不申候様訳而御願申上候
先ハ右文略之段真平御免可被下候 早々
以上
丑八月廿七日認メ出
馬場 喜八㊞
岡部 柳助㊞
武藤松三郎㊞
浅見才次郎様
関口岩次郎様
武藤新之助様
外御役人中様

(秋冷の候 そちらの皆様お元気の様子、めでたく存じます。
こちらも無事に奉公しておりますのでご安心下さい。
先に申上げた馬場喜八は、大阪へ供として出ておりましたが、御前様が当月の十五日に帰京しましたので、一緒に帰ってきましたのでご安心下さい。
また、当春下畑村の吉沢氏<下畑村名主>が上京された折によくたのんでおき、 その後も手紙でたび/\申上げましたのに、いまだに返事をいただけません。
もっとも御用人夫等もあり大変なことと思いますが、我々も物価が上がり生活に困っております。
どうか替りの人足を京へお送り下さい。近頃の風聞によりますと、手当金二両二分を水増しされるとのことですが、去年までは二両一分、いま二両二分頂いております。
この金額で全ての生活をしていくわけですから、身のまわりの費用だけでも足りません。
どうか替りの人足を京へおつかわし下さい。はっきりしたことを九月廿五日までに鳴屋の飛脚でご返事下さい。
もしご返事が長びくようでしたら、一人の帰国願いを出すつもりです。
もっとも返事の様子によっては我々も考えなおすつもりです。よろしくお願いいたします)

飯能周辺の一橋領は、原市場、赤沢、唐竹、下直竹、上畑、下畑、大河原、栗坪、横手、清流、田波目、新堀、高麗本郷、高岡、梅原、平沢の十六か村であった。

一橋家は、将軍家の分家という家創設の当初から、軍備をはじめとする家事のほとんどを幕府の役人が行っていた。

幕末になると当主慶喜(のちの将軍)が禁裏守衛総督(京都御所の警備責任者)や摂海防禦指揮(摂津の海防責任者)などの要職に就くに及んで、従来のように幕府丸抱えというわけにいかなくなり、自前の軍備が必要となった。そこで、日本各地に散在する領地から農兵の徴募や荷役などの賦課を行ったのであった。

この手紙は、慶応元年(一八六五)に書かれたもので、高麗郡一橋領に割り当てられた京都での使役に、三名の者が選ばれて出ていたが、その人達からのものである。

江戸幕府が倒壊する寸前の騒然とした京都で、しかも都会での生活に慣れていない三人の生活が、いかに大変であったかがわかる。

しかし、手紙をうけた飯能周辺の村々も、度重なる夫役や金銭の賦課により疲弊し、遠方で村のために働いてくれている者たちの要求をただちにかなえてやることができなかった。

このような状況の中で、翌、慶応二年には「武州一揆」がおこり、京では「池田屋騒動」、鳥羽伏見の戦いと、時代は急速に幕府倒壊へとむかっていった。

この大きな歴史の潮流に、武蔵山根の小村の人達が、どのようにかかわりをもっていたかを示す手紙である。

編集後記

前回の紙上で、文中「双柳一番地の一」として、「双柳の字神明と字精進場の一部・それと中山の堀込、前田の一部を含めての合筆」としたが、それについて指摘があり、調べてみればまったく私の不明であったことに気がついた。従って、「一番地の一」は「字神明の大部分」として訂正しなければならない。また、堀込、前田の一部は、そのまま残っていることは、ご指摘のとおりである。

なお、この「一の一」については、いくつかわからない点もあることとて、いずれ改めて追及してみたいと思う。「藤田(太)堀の名称の発祥についてなども、戦後のことらしいが、いつ、どういうことでそうなったかなど、まったく不明瞭である。ご教示願いたいものである。

いずれにしても、こうしたご指摘はまことに有難い。それはよく読んでいただいたということにつながるからである。

本号の「手紙文」にしても、庶民の動向を浮き彫りにしているというもので、これらがほんとうの「市史」なのかも知れない。

編集委員 島田欽一