類の買継商のかたわら、創作活動をしていた。彼の三年忌にその子俊造によって出版された追善集「可た志路集」には、翠亭友義の序文、春秋庵六世梅笠の追悼文が載せられ、全国の俳友、近在の俳人が出句している。

その中に「わが罪の消てあとなし夏祓」という彼の発句を脇起として、三十五名による連句が編まれている。

露うけて硯洗ふや萩の花

朝晴や木の芽の露を笠の上

(文政時代)

⑸翠亭平臥庵友義

近在の神社奉納句合の評者などもつとめている友義は、飯能界隈での宗匠として名が通っていたのであろう。弘化三年(一八四六)の句集には「武蔵飯能の住、通称小満川屋平兵衛といふ。小間物を鬻ぐ故八朶園の門人にして俳譜聞えありと」とあり「こまつや」の家号は、大河原亀文の葬儀香葵帳にもその名があるところから飯能村か久下分村の住人であったのであろう。

菜の花の中に平たき藁屋かな

風絶て雨にくれ行芒かな

何それと紛ふことなし遠砧

田どころのひくう見えけりおぼろ月

(文化〜嘉永)

⑹霞月庵山笑

直竹村の人で、本名を市川傳次郎といった。

名の知れぬ貝に人よる汐干かな

沖にある舟をかそへる夕すゞみ

雨垂の間遠に落てきりぎりす

(弘化三年)

⑺茶因

赤沢村で茶因といえば、名主の浅見才次郎であろう。

材木商の元締めとして、村の名主としても、江戸はもちろんのこと遠く京都までも村役として出向いたこともある。

あけぼののしたしみふかき桜かな

濱風やまつもひとしほほとときす

(嘉永五年〜七年)

⑻養仁叟月雄

吾野三社の神官で、歴史的にも由緒のある我野神社の第二十三代を嗣いだ宮司である。本名を朝日真澄といい、文学はもとより国学にも通じ、その交遊範囲は近在にとどまらず、遠く江戸まで及んでいる。

約束の客待久し秋のくれ

花さくや散るや想ひて日は過る

春の鐘かそへなからに寝入けり

飜るゝは明日置く種子か草の露

(弘化三年〜嘉永七年)

⑼桜々居朶英

「畑の住吉沢氏、諸国へ絹布を鬻て業とす」と句集にあるところから下畑村名主の吉沢文蔵であろうか。

文蔵は村役人として、折から幕末争乱の中で一橋家の農兵徴募の世話役として、東奔西走している。俳譜での活躍はうかがい知ることができないが、つぎの二句が残されている。

湧口のさたかに知れぬ清水かな

消のこる雪もあはれや塚のかけ

(弘化三年・嘉永七年)

⑽松竹庵梅林

吾野の人で名を久保新右衛門といったというが、飯能人物誌の久保新衛門と同一人であろう。

それによれば国学、茶道、華道のほかに俳譜にも長じていたという。また、寺子屋も開き、名主も勤めるという才人であったようだ。

雪の竹よわみを見せす折にけり

月の陰とれたはつみや時鳥

月まてはこころつかぬる梅の花

出て見ねはすまぬ声なり不如帰

(弘化三年〜嘉永七年)

⑾翫月庵而来・梅女

笠縫村の人で本名を島崎忠蔵といい、梅女は美人の聞こえある忠蔵の妻であるという。

遠乗の鞍に風ある枯野かな

迎ひ火やととかぬまでも念の入る

(而来・弘化三年〜嘉永七年)

すゝしさのつきとめもなき夜舟かな

稲妻の消れは闇のしまりけり

(梅女・弘化三年〜嘉永七年)

以上、天明期から幕末までの飯能の俳人を紹介してきたが、このほかにも吾野の村田藤右ヱ門(俳号岷江)、%ト、絮柳などの名が天明俳壇の中に見え、その後も直竹の平井忠右衛門(俳号山濤舎對鵞)、小瀬戸の野口養賢(俳号禎司、越雉鷄)などがいるが、事蹟のわからないものは割愛した。

もっとも養賢は医家としても俳人としても名をなし、毛呂山町の生んだ巨匠川村碩布とも親交があって、作句活動も盛んであったようであるが、碩布、太魯、大瓠などとの連俳が多く、ここでは作品をとりあげなかった。

こうしてみてくると、飯能地方における俳譜の歴史は、そのはじまりを江戸中期に遡ることができるが、こののちも明治、大正を経て今日に至るまで、文芸活動の中心として盛んにつくられ、神杜の掲額などに有名、無名の人達の作品が多く残されている。

編集後記

今年の春は遅く、四月の二十日近くにな、って、やっと桜の花が開きはじめた。市役所のめぐりの桜も、これからしばらくの間、人びとの目を楽しませてくれることだろう。

待ちこがれた春。花の下にあって鳥のこえを聞けば、誰しも俳句のひとつもものにしてみたくなることであろう。

花鳥諷詠といえば、それは昭和のはじめ、高浜虚子が唱えた俳句作法の理念だというが、花鳥を友とし、風月に心遊ばせた俳句は、江戸時代の中期以降、とみに盛んになってきた。それはこの地方も例外ではなく、皆さんに提供していただいた、編さん室のおびただしい資料の中にも、かずかずの俳譜の書が見受けられ、目を見はるような秀句に出合ったりする。

今回、編さん室に頼んで、市内の人に限り、編年順にそれをつなげてもらった。

もとより、これはほんの一部であるが、いまとちがって娯楽の少なかった当時、人びとの俳句への打ちこみようもわかり、底辺も意外に広がりをもっていたことに気づくのである。

編集委員 島田欽一