行政編について

市史編さん嘱託
行政編担当
大久保鐵雄

大正15年の1町12か村連合点検

消防
大正15年の1町12か村連合点検
天覧山麓グランド(市立図書館提供)

行政編については「行政Ⅰ」の発行後、意外に年月を経過してしまったが、明治以後のことについて、これからとりあげようとするものは、土地、土木、保健衛生、福祉、兵事、警察、消防、災害等、極めて広範囲にわたるはずなので、それの資料の収集がなかなか困難である。

全地域から、くまなくこれらの資料を集めるということは、なかなか容易なことでなく、従って、その整理にも思わぬ日時を過ごしてしまったのが実状である。

明治維新直後の行政は、新政府といえども、江戸幕府のしきたりをそのままに踏襲してきた が、逐次町村の行政まで支配する制度をしき、県を置き、町村には区を設けて、従来の名主に代わるものとして戸長が任命された。

通行も物資の流通も自由活発となるに従い、主な街道は県道となり、里道となって、県なり町村で管理するようになってきた。

物資の流通が円滑になってきたので、町村のあり方も、国の経済に大きく左右されるようになってきた。農業から商工業が主体となってきたが、それも国の経済の好不況の影響を受けて、変転があった。

行政のほとんどすべてが、国や県の許可、認可を受けて執行されてきたが、その補助財源も乏しかったので、町村自体で行えるものはほとんどなかったといってよい。もし、許可を得たとしても、町村独自の費用で行うことであり、多額の金を要するものなど、到底不可能なことであった。

町村長をはじめ、官公吏も天皇の手足となって動くものであるとの観念であったから、国の発展が主眼となって、現在のように公僕として住民に接していくことなど考えられなかったものである。

こうしたことが改まって、町村が自主的に大きく発展してきたのは戦後のことである。住民の生活に直接に影響するのが、市町村の行政なので、従って市役所も町村の役場も、身近な存在となってきたというものであろう。

資料の収集と保存

市史編さんのために収集した資料は、つぎのような点数となりました。

調査点数約1万3千点
保管点数約7千点
内  江戸期のもの約3千点
     明治以降のもの約4千点

これらの資料は、現在発行を進めております資料編などに使われるとともに、将来にわたって保存されることになります。

それぞれが貴重なものですので、これを利用するために、所蔵者ごとの分類、内容による分類などによって、整理、保管をしております。

これによって、つぎつぎと散逸しつつある歴史的資料が、将来にわたって保存されることができることになります。

ご協力を感謝申しあげるとともに、続行されている市史編さん事業に、一層のご支援をお願いいたします。

編集後記

寺の本堂を建て替えるべく、とりこわし、整地中に、須弥壇の下に埋蔵されていた無数の経石が見つかった。それは中型のトラック一ぱいはあろうというもの。中の人頭大の石に、くわしいことが書かれてあり、それが寛文九年(一六六九)に埋められたものであると判明した。これはつい先頃、中居の宝蔵寺での出来事である。こうして歴史のなぞのべールは一枚ずつはがれてきたのであるが、宝蔵寺といえば、そこに安置されている加治貞継と大石重仲の位牌は人も知るところである。

しかし、ここにその武将の墓があるものかどうか、そうしたことは一切わかっていない。

大石重仲は、越後の上杉の武将、天正十八年に、八王子城で戦死した北條氏照も大石家の養子となったことがあるというから、相当な家柄だったにちがいない。氏照に従った中山家範もともに討死している。

歴史はつぎからつぎへとつながり、さまざまなかっとうの物語をとどめている。それにしても、まだわからないところが余りにも多いというものである。

編集委貝島田欽一

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