一枚の相撲番付から

市史編さん調査員島田欽一

相撲番付

この相撲は、いつ、どこで

ここに載せた相撲番付を見る限り、それが、いつ、どこでの興行であるか、もとよりわからない。しかし、”江戸”君ヶ嶽、"丸亀"象ヶ鼻とあることからすれば、それが江戸時代であることに、まず間違いない。

それと、世話人として名を連ねているのが、松田屋弥兵衛、鶴屋喜右エ門、並柳清五郎、松井戸増太郎とあるので、飯能での興行とみて差支えなかろう。

市史・資料編「年表」に、文久二年(一八六二)六月、「飯能村、久下分村の鎮守、熊野権現修覆のため相撲興行をしたい旨、両村名主等が岡役所へ願い出る(双木家)」としてある。

そこで、これはそのときの番付かと思い、鶴屋喜右エ門、並柳清五郎の名もあることから、「清水次郎長とその周辺」の著者、増田知哉氏にそれを送ったところ、折り返し、文久二年二月と十一月の江戸大相撲の番付をいただいた。

ところが、その番付とくだんの番付とに、力士名の一致するのが全くなかった。ということは、これは文久二年のときのものではないということになる。

そうこうするうち、去る九月、都築信太郎さん宅での双柳清五郎の供養の席で、浦和から来て下さった増田さんに、こんどは慶応年問の江戸相撲の番付を見せてもらったところ、そこには前頭、君ヶ嶽、同照ヶ嶽、さらに幕下の象ヶ鼻の名も見ることができたのであった。

そうすると、この相撲は慶応年間か、ということになる。さらに、慶応三年の十一月場所を最後に、君ヶ嶽は番付から名を消しており、象ヶ鼻は、その年の三月場所で、それまでの轟のシコ名から改名しているということなど、相撲博物館の資料を据えての増田さんのお話を聞き、この番付の相撲は、慶応三年とみるより外には考えられないということがわかったのである。

もともと、この番付の飯能相撲は地方巡業であり、東大関とある君ヶ嶽は、慶応三年三月の本場所では、東の前頭四枚目、西大関の照ヶ嶽が西前頭五枚目に位置し、象ヶ鼻は東の幕下四枚目に見ることができる。(当時は十両制はなく、幕内、幕下となっていた)

四人の世話人

さて、この番付に世話人として名を連ねている四人についてであるが、当然、それはこうした興行を取り仕切った、土地の顔役で、貸元と言われ、親分と呼ばれていた人たちである。

そこで、そのひとりひとりをとりあげてみるべくはじめてみたのであるが、最初にスポットを当てるべき松田屋弥兵衛については、八方手を尽くしてみたが、皆目わからない。しかし、親分衆としては鶴屋喜右衛門の右に出る者は当時、関東にはいなかったはずなので、おそらく金子元、つまり興行に当たっての資金の提供者であったのかも知れない。

鶴屋喜右衛門

本名は清水喜右衛門、通称、高萩の万次郎であり、当時、関東切っての大親分で、国を追われた清水次郎長が、しばらく身を寄せていたといい、次郎長物語にも必ず登場してくる人である。

万次郎は、高萩宿(日高町)の由緒正しい家に生まれ、今に残る写真の、その風ぽうが示すように、温厚そうな顔立ちながら、眼光のするどさを思わせる人であった。