さつま芋と蚕

産業編担当調査員野ロ正元

市史編さん事業では、9冊目(動物)と10冊目(産業)が相ついで出ることになり、動物編はすでに自治会を通じて購読希・望者をつのった段階である。世の中の変化を、よく「日進月歩」だというが、市史編さんにたずさわって、これほど痛感した言葉も少ない。

飯能地方で綿や藍が作られていたことは、文献でしかわからないが、外にも「世にある時は救いの神様と思われたのに、何を今さら……」と概嘆しているものの中から「さつま芋」と「蚕」を取り上げてみよう。

「さつま芋」

さつま芋が関東地方に現れるのは、徳川中期(吉宗の時代)で、青木昆陽が享保20年「蕃薯考」を刊行してひろめたとされているが、それ前から現物は現れていた模様で、種芋を床にふせて芽を出させ、その芽を植えて栽培するという、今迄に経験したことのない植物だけに、当時厄介者扱いにされたが、その後急速に栽培技術も進んで、米麦の不足をおぎなってきた。特に太平洋戦争中、日本人の食生活に貢献した役割りは大きい。米麦の代替というより、ほとんど主食扱いにされたのだから、味などとやかく言える状況ではなく、量が沢山とれればいいというので、沖縄とか、農林一号、茨城一号などという種類が幅をきかせた。

昭和23年、当時の飯能町長細田栄蔵から、入間地方事務所長に出した、甘藷作付報告書は前の通りで、太白、花魁というのは在来種である。他に金時とか紅赤というのもあるが、微量で表には出ていない。

10月に掘り取り、そのあとには多く麦を蒔く。生芋は畑の隅に深いむろを作ってその中へ貯蔵し、低温に弱いので、乾燥芋としたり、粉にしても真黒なさつまだんごにして広く利用され、庶民の食欲を満たしてくれた。

昭和23年甘藷作付調査(単位…町≒1ha)

割当面積沖縄太白農一花魁茨一其他
飯能 63.318.939.0 2.7
精明 105.310.862.712.819.0
元加治 43.612.316.8 1.513.0
加治 85.819.639.2 9.013.5 4.5
南高麗 56.4 5.739.7 5.8 3.0 2.2
354.467.3197.431.816.541.40
100%18%55%9%5%11%0%
(飯能町勧業部によるこの表は市史にはのっていません)

「蚕」

養蚕の歴史は実に古く、神話や伝説の時代にまでさかのぼり、種がよくも伝わってきたものだと感心する。外国でもフランス・イタリアあたりが盛んで、明治初年、ヨーロッパで蚕病の大流行から、日本の蚕種が大量に輸出された実績があるが、金儲け主義にはしって粗製濫造から価格の暴落にあい、政府も次第に指導監督を強めていった。

明治年間の蚕種は、地方の蚕種業者が自慢で代々受け継いできた固定種で、白玉とか又昔とか数百種におよび、繭の色も白だけでなく、青白、黄などさまざまで、家内工業向けの繭としてはそれで十分であった。

しかし養蚕は、政府の殖産政策もあり、明治後半から順調に発展し、大正期に急上昇して昭和初期迄黄金時代が続いた。生糸の対米輸出で国の経済を支えていたのは衆知の通りである。

もともと蚕は、春発生して成虫となって卵を生むと、その卵は翌年でないと発生しない、いわゆる一化性である。年二回発生する種類の蚕(二化性)もあるが良質の蚕とは言えなかった。養蚕が盛んになり、春蚕以上に秋蚕が飼われるようになると、春の蚕種を長野や山梨の風穴((溶岩窟)に冷蔵を頼んで、いわゆる風穴種として販売した。飯能にも天然氷を利用した蚕種用の大きな冷蔵庫が、現在の柳町に設備されていた。

編さん日誌

11月
7〜8日埼玉県市町村史編さん連絡協議会研修会へ事務局員出席
14日動物編入札
17日編さん委員会・産業編の発行と60年度事業について
28日地誌編現地調査
12月
1日産業編・編集委員会
15日産業編入札