田中かく子と荻野吟子
─書翰紹介─

直木賞作家渡辺淳一の小説「花埋み」の主人公、日本で第一号の女医免許を取得した荻野吟子については、いまさら紹介するまでもないであろう。

しかし、この吟子と無二の親友でもあり、飯能ではじめての新聞発行を手がけた田中一誠堂の創立者、田中かく子については「花埋み」にもふれられておらず、知る人は少ない。

田中家には現在、吟子の書翰二十七通をはじめ、吟子とかく子の共通の師であった井上頼圀のもの二十三通、甲府の内藤萬寿子のもの十七通などが残されており、当時の消息を知る上で恰好の資料となっている。

そこで、書翰を中心にして吟子とかく子、その周辺を記してみよう。

吟子は嘉永四年(一八五一)現在の大里郡妻沼町に誕生しており、安政六年(一八五九)に飯能で生まれたかく子より八才年長であった。

二人の出合いは明治六年のことであろうと思われ、吟子がその年四月に入門した国学者井上頼圀の私塾へ、その年の秋かく子も入門したことによってわかる。

ともに机を並べて勉強しているうちに、同じ熊谷県(のちに埼玉県)出身でもあり同性でもあることから、親交が深まっていったことと思われる。

二人は入門して一年ばかり経ったころには、頼圀の薫陶をうけるだけでなく、自ら女教師として教場に立つようになった。

遠い故郷で娘の東京での生活を心配している父親を気づかって、師の頼圀が、かく子の父に宛てた手紙はつぎのようである。

奉拝啓候扨は角子殿勤学勉強三八の日姉小路家へ出張説教評判宜候間此段申上候  且八日には稲葉中教正殿(元山城淀の城主十一万石、方今一万石)玄関通致候間此段御風聴申上候  実に今日の有難さ角子殿右之通の訳にて飯能にては今まで顔なき事と愚存致候  猶巨細は当人より申述べべく候  以上
  七月十日(明治七年)
                      与里久二
  忠三様(かく子の父親)

このように姉小路家や稲葉家の姫君たちに、出張教授をしているうちに、甲府で私塾を経営していた内藤萬寿子から、甲府での教授方の誘いをうけることになった。

来る春なもでは、きく事難き鶯の初音より  なほ嬉しき御消息取手おそしとおたまきの  くり返しつゝうちほゝゑまれぬ  御親の君たち替らせ給はず  君もいよゝすこやかに物学びに心を持ひ給ふとや  うれしきかぎりになむ  おのれは久しう西の都辺あたりうかれあゆみし罪なむ報は来て内外の事どもさはなれば  書よむ事さへいでかねぬ  されどうれしきはすこやかにて此暑さにもさはらではべるこそ  大御神等の御恵みならめ
先生には川越に行給ひしとや  女教院にはいかが立給ひしや  いまに其まゝなるやきかまほしう女教師の君たちまだ姉小路殿江集ひ給ふをりなどのさまきかせ給へ  こなたも女教院ばかりにては立がたく  女学校打まぜて立むとこそおもへ  君は親君等遠路なればゆるし給はじ  吟子君を苦してなるべくは教の道開かまく思ひはぬ  君も親君ゆるし給はゞ片田舎もおかしきたればはべりぬ  見がてらになりはえ給ふ御心はなきや  きかまほし
  あなかしこ
  七月廿七日(明治七年)
                          ま須子
  角子君
        御もとに
そえて申す  権田翁への消息とどけ給へぬる御礼厚く  親君に申たまへ  師の内君をはじめ家内

編さん日誌

9月
2日動物編・編集小委員会
6日動物編・編集小委員会
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13日動物編・編集小委員会
20日通史編現地調査
22日産業編・編集小委員会議
24日動物編・編集小委員会議
10月
2日産業編・編集小委員会
4日動物編・編集小委員会
10日地誌編現地調査
16日産業編・編集小委員会
18日通史編現地調査
20日編集委員会(動物編の最終編集について)
25日産業編・編集小委員会議
27日編集委員会(動物編の発刊について)