橋懸日待

市史編さん嘱託
落合熊吉

橋懸日待帳

大字平戸深沢谷津出口の高麗川に、小さな橋が架けられている。橋といっても、長さ五m、幅四十p、厚さ十五p程の板を川の両岸にある岩にのせて、洪水の際の流失を防ぐために、ワイヤーロープでつなぎ、土手の木の根に結わえただけのものであり、普段は水面より五、六十pくらいで、橋が架かっているというよりは、板が渡してあるといった程度のもので、ちょっとの増水でも外れてしまい、架け替えには板の重みからして一人では無理、橋の近くの者が二、三人昼休みなどに声をかけ合って、約一時間ほどで復旧する。

明治二年の平戸村明細書上帳に「村方橋弐ケ所但シ十月(一字不明)三月迠掛置夏秋ハ掛置不申候」と記されて、その脇に「是ハ不認」と書かれてある。この文書の宛先きは「韮山縣御役所」となっているので、多分韮山県令の指示と思われる。

この弐ケ所の内、一ケ所が現在板が渡してある所より十mほど上流に架けられていたものと思われ、まだ橋台の一部が残っている。それによると、当時の橋の高さは通常の水面より一m二、三十p程度であったようである。

昔、農村では収穫が終わった時など、取上日待といって、朝から宿の家に集まり、餅搗きをしたり、手打ちうどんをつくったりして、酒肴でお日待という休養の一日を過ごした。

主にこの橋を利用する、川をはさんだ十数戸の農家では、橋懸日待というお日待を催していた。明細帳には、十月より三月迄は掛置と記されているが、実際に橋懸けが行われたのは、毎年十一月中、下旬にかけてである。材料の不足等は前もって調べ、寄附してもらい、伐採、木挽きをして用意しておいたようで、橋懸けの日は、毎戸一人ずつお伝馬をし、橋に通ずる小路の普請も同時に行われた。

橋懸けが終わると、いよいよ本番、お日待であるが、日待帳に記された費用の内容を見ると、ごく質素なもののようである。

たまたま洪水で橋が流失すると、二名ほどで川沿いに探しに出る。橋木を拾い上げてくれた家への謝礼、探しに出た人夫賃、引き取りに要した費用等も、橋懸日待に精算した。

この橋懸日待は、いつ頃に始まり、いつ頃までつづけられたかは不詳だが、明治二十八年から明治四十三年までの記録は残っている。明治四十三年は大洪水のあった年、この年以降どう変わったのであろう。

男達のお日待なのに、お酒の費用が入っていないが、本当に酒ぬきであったかどうかわからない。

 資料
 明治三十五年十一月廿六日
      宿 細川清治郎
一、壱円四拾五セン四厘 白米八升 (※「セン」は「銭」から金偏を削った字。以降「銭」で置換)
一、弐拾壱銭     豆腐壱箱
一、弐拾銭      サカナ
一、弐拾五銭     醤油
一、拾銭       水油
  計弐円弐拾壱銭四厘
一、壱円廿銭 橋木流失二付
       探索貰受費
一、弐拾五銭 橋木探索人夫賃
  計壱円四拾五銭
 日待費計金弐円弐拾壱銭四厘ヲ十六人二割一人分拾三銭八厘
  出金ノ都合ニ依リ
  一人金拾四銭出金
 橋木費壱円四拾五銭ヲ
 十八人二割八銭五毛五糸余
  出金ノ都合ニテ
 一人分八銭出金
  一銭不足二付日待費餘リヨリ流用ス
       小峰庄蔵
       若林源之丞
       山川菊之助
       若林弁治郎
       落合周五郎
       田島金治郎
       小作林治郎
       須田太三郎
       小作弥十郎
       榊原兵太郎
       細川清治郎
       勝本文太郎
       小川秀次郎
       大野新治郎
       小川健治郎
       山川米蔵
      外ニ
       加藤仙太郎
       落合七郎右ヱ門

(このお日待に参加している家は十八軒で、現在の下平戸自治会とほぼ同一区域の家である。この区域の人達が既述の橋を管理し、年に一度のお日待ちをしていた。)