産業編余話─古銭の話

産業編担当調査員
細田秀雄

奈良・平安時代の銭

奈良・平安時代の銭
わが国最初の貨幣といわれる和銅開称など皇朝銭(わが国で鋳造された銭)の一部

日本で初めて作られた金属の貨幣は、和銅元年(七〇八)の和銅開珠ということになっています。記録によると、慶雲五年正月、武蔵國の秩父から朝廷に銅が献上されたのを祝って、同月十一日和銅と改元し、その年のうちに銀銭に続いて銅銭を鋳造したとあります。

このことからも、秩父地方が早くから開けたことがうかがわれ、このように貨幣(古銭)は、貨幣の歴史だけでなく、その時代の社会の仕組みや経済、あるいは世相まで反映していると思われます。

そのコレクションですが、現在、数、質ともに優れているのは日本銀行、三和銀行、東海銀行のものとされています。

私はもと、三和銀行の行員でしたから、そのコレクションを何回も見ていますが、太閤分銅金のように、日本に数個しかないものは別として、一番すばらしいと感じたのは大判金でした。

この大判金は、織田信長が宮中御用の金工、後藤徳乗光次に命じて無地の楕円型大板金を作らせたのが原型で「十両後藤」と花押がなされるようになったのは、豊臣秀吉の時代となった天正十六年以後のものです。慶長三年、秀吉歿後徳川家康も後藤家を重く用い、同六年に江戸に金座を設け、その長に任じています。

その金座ですが、江戸城、常盤橋門外(現、日本銀行の地)にあったとされ、その長を御金改役といい、後藤家が世襲し、代々の長が大判金にサインしています。

また、明治二年まで続いた銀貨系列ですが、最初は「絞り銀」「灰吹き銀」と称する銀のかたまりを、目方ではかって使っていたようですが、室町末期から、萩銀判、譲葉銀など一定の形のものが登場してきます。

徳川家康は慶長三年、湯浅常是に丁銀に打つための「極印」を試作させ、その中から大黒を選んで慶長六年丁銀(いも銭)をつくりました。このことから家康は湯浅家に大黒の名を与え、以後代々大黒常是を名乗ることになります。

そうしたことから明和年間以後に作られた豆板銀には「銀座常是」とあります。

銀座は、幕初、伏見、駿府に設置、以後京都、江戸に移し、また、大坂、長崎にも設置したが、寛政十二年(一八○○)不正事件により四座とも廃止、江戸一か所のみ再興されて明治に至っています。

編集後記

川べりに立って、水の流れを見ているとき、その流れの行末はとか、その流れはどこからくるものか、と奥深い山の渓谷を思い画いたりするものである。

今回は、金子さんに鍾乳洞を、細田さんに古銭のことについて書いてもらった。いま、目の前の水の流れも、その源流、さらには流れ出るまでの地底のありようを思えば、そこには到底想像できないような不思議な道程、さらには鍾乳洞に見られる夢幻の世界などに思い到るのである。

水のあるところ、特に山間では流れに沿って道があり、そこに人の住む家があって今日に至っている。人間の歴史はまた、水の歴史だ、といわれているのもその辺にあるのだろうか。

端的にいえば、古来、人間は自給自足の生活から経済生活に移行してきた。流通があってこそ経済が成り立つ。そうして貨幣はその根幹をなしてきた。

細田さんの文中の「和銅開珠」は、数えて千二百七十五年前である。地底の歴史と人類の歴史と比べることは無理だとしても、この短い期間に、よくもまあ、今日あるような発展をとげてきたものだと思う。

編集委員 島田欽一