飯能の古民家について

民俗編担当調査員
加藤一

正面全景

正面全景

土間と床上の境

土間と床上の境

昭和44年に市の教育委員会で古民家の第一次調査を虎秀、下赤工、中沢、高山、井上、三社、南川、下直竹、上直竹、岩沢、小久保の11棟について行った。

ついで、第二次、第三次調査を県と共同で行ったものが「埼玉の民家」として本市の分も含めて発刊された。

社会状勢の変化とはいえ、民家の変革もめざましいものがある。市内11棟中すでに13年間に5棟が建てかえられ、昔の姿は見られない。

そこで、市内で2番目に古いといわれる岡野家を「埼玉の民家」から引用してみることにする。

○岡野和三郎宅
飯能市小久保一二九

外秩父から平場にでた畠の多い村の民家であり、村役をつとめたという言い伝えがある。母屋の現状は床上部分前面の庇を改造し、中古に土間に続く馬屋土間を改築し、床上部分でもデエ・ヘヤと背面の改造が行なわれた。この改造で当初柱がかなり失われた。復原すると、馬屋部分を除いた母屋の規模は桁行七間半、梁行四間であって、土間と床上境は後側一・五間を持ち放しとするが、上屋柱筋は前後面から半聞位置である。床上部分は広間型であってデエ前面に半聞の入側をもち、桁行三聞の広問はデエ・ヘヤ境の延長一間の所に柱がたつ。土間床上境の柱はハマグリ刃手斧仕上げであり、当初柱は主に雑木である。

当初の問取は広間後部に柱がたつ点で古四間取をもとに成立した広間型と考えられ、前面上屋柱筋を前面より半間位置とする点で古風であり、年代は一七世紀末ころかと思われる。

○調査の思い出

何の調査でも、天候に左右されることが多い。幸にこの調査は順調に進んだ。当時の反省記録をみると、7月14日、朝霧のたちこめる東吾野駅に降りたち、ネムの花咲く虎秀谷津の加藤丑之助氏宅を皮切りに、民家調査のスタートをしたのだった。

以後7月末まで出張調査をし、11棟を終了したのが7月30日、連続17日間、30度を越す猛暑の中でのことであった。この間、高山に、正丸の峠下に、また中沢の山奥深く分け入り、時に渓流に憩い老鶯の声に耳をそばだて、岩沢や小久保の里で、草いきれの暑さの中を歩き回ったことなど、みななつかしい思い出である。

編集後記

市史・資料編の編さんも追いこみに入ったいま、この頃になって見せてもらった文書が、既刊のものの空白を埋めるに足る重要なものであったりして、残念な思いをすることがある。また、仲間といえどそれぞれ着眼点の相違はあるもので、見過ごしてしまった資料のことを、あとで知って口惜しがったりすることもある。しかし、そのいずれもが、歴史を追求する者の避けて通ることのできない、いわば”泣きどころ”でもあろう。

そのうち、資料編が終わっても、あとに通史の編さんという大きな仕事が控えている。編さん室では、古いものはなんでも見たいので、ぜひ声をかけていただきたいものである。

私の手許に、片隅の焼け焦げた、昭和初年の農家の収入支出帳があるが、これは焼却されようとする寸前、たまたま訪れた先で貰い受けたものである。当時の物価、わけても農産物の価額を知ることができて有難かった。日露戦争のときの供麦精算書など、ボロボロだったが、まさに貴重の一語に尽きよう。

編集委員 島田欽一