明治初期の授業料

教育編担当調査員
野口正元

授業料徴収の帳簿

授業料徴収の帳簿

教育を希望し、それがかなえられる人のみが教育をうけられた時代から、誰でもうけなければならなくなった義務教育制度の制定までには、保護者の費用負担に対する考え方にも教育観にも相当なへだたりがあったものと思われる。

昔のお金は、一両が四分、一分が四朱であるが、銭一貫文がいくらになるかは相場によって変動があったので換算しにくかった。そこで明治政府は銭十貫文を一両と規定すると共に、一両を一円とする円銭方式を採用した。しかし新貨幣の鋳造も間に合わないし、急激な変化は民心を混乱させるので、両方の単位の併用を認めていた。

従って一朱は六二五文となり、六銭二厘五毛の計算になった。今の金で五千円位になるのだろうか。

さて、授業料であるが、寺小屋では、入門の時の「束脩」退門の時の「謝礼」年五回の「節句礼」を出す風習があり、必ずしもお金でなかったが、家の格式に応じて、一朱というのは上の部であった。小学校の制度が出発した明治六・七年当時は授業料なしの処もあったが不合理だということで、中藤では二銭、其の他の所では多く月謝一朱で出発した。正しい資料とされている文部省第二年報(明治七年)には、飯能、岩沢、矢颪、川寺、永田、下直竹、上直竹の各学校共一月毎生徒授業料四銭一厘とのっているが該当する資料は地元ではどこにも発見されていない。全部そろって一厘という端数がつくのも不思議で、資料提出の際、飯能に右へならえをしたのかも知れない。

さて上の写真であるが、これは矢颪学校明治十年丑年の資料で、集金は旧単位である。

             記
    利足壱円二付百文宛(一ヶ月分)
    生徒授業料 壱人ニ付
               七百文宛
利足
一  五百文  佐野権平
    外  七百文  生徒壱人 
一  壱メ百五十文  森下富蔵

これは矢颪学校では、明治十年に授業料が一人一ヶ月七銭だったことを示している。 (詳細は飯能市史・教育編51ページと101ページ授業料の項をご覧下さい)

黒田直邦と能仁寺

飯能・久下分・真能寺・中山の四か村が黒田領となったのは宝永四年(一七〇七)のことである。この時直邦四十一才、すでに功成り名遂げ、常陸下館城主として一万五千石を領していたが、領地へ帰ることはほとんどなく、五代将軍綱吉の側近として仕えていたようである。

この年五千石の加増をうけ、二万石を領することとなったが、この中に菩提寺とした能仁寺がある飯能村が含まれていた。

すでに二年前に五十石の朱印を受け、前の年には堂塔伽藍の再建が成って、名実ともにこの地方きっての名刹であった能仁寺は、さらに黒田家との関係が深まっていった。

直邦は、享保二十年(一七三五)六十九歳で亡くなり、その墓は多峰主山にある。

編集後記

およそ教育のことは、それが一朝一夕に成ったことではない。殊に近代教育の幕開けであった明治の時代、学校費の重圧が暴動の原因ともなったといわれ、秩父事件でも、要求書の中に「学校三ヶ年休校」ということがみえる。

今回は、野口正元氏に「明治初期の授業料」について書いていただいた。氏は「市史・教育編」の執筆者でもある。

また「ブナとウラジロガシ」について書かれたのは、前の教育長・斎藤勝治氏である。

その植生が、ブナは南限、ウラジロガシが北限で、しかもいずれも吾野の地であったとは、すべて初耳であった。

教育のこともそうであるが、自然の中の一木一草たりとも、みな先人の残してくれたものである。私達はそれを大切に守り育てて、次代に引き継がなければならない。期せずして、両氏の書かれたことが、そんなかかわりをもつことに気付く。

編さん室も、市役所の庁舎の一階に移って一ヶ月あまり、ようやく落ちついたところである。

編集委貝島田欽一

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