行政編(二)の編集について

市史編さん嘱託大久保鐵雄

出初式

出初式

昭和三十四年の出初式です。

例年飯能第一小学校の校庭で行われておりますが、まだ西校舎があって狭い校庭に各地区消防団が勢揃いしました

「行政編」は(一)をすでに刊行し、いま(二)の執筆にかかっている。

資料のほとんどが、明治初期からの古文書なのだが、町村役場の設置(明治二二年)以前のものは、それまでの名主や戸長等、村の主だった家の古文書によらなければならない。

この古文書は、旧家で所有しているわけだが、必ずしもすべてにわたって経過を明瞭にたどれるほど整理保存されているわけでもないし、未見の資料も沢山あるはずで、なかなか飯能地方すべての状況を知ることは容易でない。

そうした旧家でも、古文書は逐次家の改築等のため焼却されたりしていくし、古文書を持っておられる未知のお宅をすべて探し当ててお訪ねし拝見させていただくことも、事実上困難である。

明治二二年以降の、町村の書類にしたところで、長い年月が経過しているので、すべての書類が残っているわけではないし残されている書類だけでも、完全に調査するとなると、多大な日時を要する。加えて、旧村々のものまで調べることになればなおのことである。

町村の行政の主なものは、県の許・認可によって監督されていたので、県・国の書類、あるいは当時の法律、規則により類推することも多くなる。

行政のことは、あまり住民に興味のないものが多いともいえるので、なるべく無味乾燥にならないよう、こころしていきたいと思っている。

また、分野も広いので、できるだけ解りやすく、うまく分類ができれば、と考えている。

入間電気鉄道

西武鉄道の池袋線(飯能・池袋間)が開通されたのは、大正四年のことでした。(当時は武蔵野鉄道といいました。)

それ以前は、飯能・入間川間に馬車鉄道が走っていましたがこれを電気鉄道にしようという計画がありました。

その計画では、明治二十九年に入間電気鉄道株式会社の設立が発起され、飯能の久須美地内の入間川をせき止めて発電所をつくり、その電力で電車を走らせようという画期的なものであったようです。

一方「飯能・名栗両町村の命脈」と、その計画への反対請願の中で書かれているように、当時入間川はこの地方の物資輸送の大動脈でした。

その動脈をせき止めてしまっては、地域住民の生活が成り立たないというのが反対する人達の言い分でした。ことに木材を筏によって東京へ出していた上流の人達にとっては、死活の問題であったようです。

その計画と反対の運動が、どのような経過をたどったのかは、資料不足ではっきりしませんが、結局電気鉄道は実現しませんでした。

編集後記

この"編さんだより"も、年四回ということなので、本号で今年度は終わりとなります。

本号でとり上げたのは、行政と信教についてですが、むかしから現代に至るまで、庶民は否応なく行政の中に身を置き、政治のまにまに行動してきたわけです。たとえば、善政がしかれれば、庶民の生活は当然うるおい、反対に悪政の下では、とたんの苦しみを強いられて、一揆が起こったりしたものでした。

飯能でも、そうしたことが如実にうかがえるような古文書につき当たることがあります。

また、信教を政治の具にしたという例外はあったとしても、そこで庶民が救いを求めてすがり、さまざまな願望を託したのが信仰であったといえましょう。

今月中に、市史の資料編「社寺教会」が発刊されますが、市の歴史を知っていただくためにご愛読をお願いいたします。

本号でも触れておりますが、むかしの資料とは、たとえば借金の証文にしても、名主が奥判をしているので、それによって名主の名前がわかるといったようなものです。

編集委員 島田欽一

戻る