産業の担い手としての民衆

(産業編担当調査員)岡野達雄

中世文書

中世文書

この文書は、日高町の町田家所蔵のもので、貞治二年(一三六三)に書かれたものです。

この文書からこの地方でも絹の織られていたことがわかります。

わたしたちが中世に対してもつイメージといえば、古代と比較して生産は停滞し、土地の開墾も増えないといったように、生産や流通の遅滞、浮浪や逃亡、また、戦乱や一揆が起こるなど「暗黒の時代」を想像するのではないかと思います。

土地といえば、稲作を考えるように、律令制社会の農業生産を過大に評価するあまり、ややもすると、その時代に生きた農業以外のさまざまな生業にたずさわっていた民衆の存在を見落としがちになってしまいます。

このことは、飯能地方のむかしの産業形態を考えていく上に心していかねばならないことでしよう。

そこで中世郷土社会の産業=生産・流通関係などを出来るだけ当時の人びとの生産や生活の「場」において考えてみたらどうなるでしょう。産業は十分に分化せず、社会的分業や商品経済も未発達な社会的背景をとり上げてみると、当時の農民は緩傾斜地を利用しての田畑の耕作だけでなく、山林原野での狩猟、漁携や木材・炭・薪、また紙漉、機織りなどの生産活動にも大きな比重を置いていたでしょう。そうした過程をたどり、これらの非農業生産が、人びとの生活を補完するという枠を越えて、商業行為を生み出していったことが考えられます。事実、非農業部門の生産が盛んな村落地域から、貨幣の流通や、年貢の代銭納がはじまったといわれます。

こうした貨幣の流通は、ますます生産品の流通化をうながし、経済生活を大きく展開させていったのです。当然村落と村落を結ぶ道も出来たわけで、飯能に数多い鉄仏の中に、当時の鋳物師や鍛冶の足跡がみられることからもそれがうかがえます。

産業の担い手としての民衆の生活をさぐっていくことが、中世を考える上で最も大切なことといえましょう。


猪の話

現在、市内の山問部では猪による農作物の被害がでています。

このため埼玉県知事の特別許可をうけて、三か月間の狩猟期間を設けて狩猟を続けているようです。

それでは、むかしはどうだったのでしょうか。

わずかな史料のなかから、年問狩猟高をみていくと、つぎのような記録がみつかりました。

寛延三年(一七五〇)白子村九疋鹿十七疋
宝暦十年(一七六〇)南川村五疋鹿七疋
嘉永五年(一八五二)大河原村一疋鹿一疋
慶応三年(一八六七)坂元村一疋鹿一疋

これらの狩猟高は近隣の村々でも大同小異であったろうと思われ、この頭数から推定すると現代より以上の被害があったことがうかがわれます。

このほかにも「猪・鹿・狼による被害がでているので、鉄砲を貸してほしい」というような文書も見られました。

編集後記

保田与重郎が亡くなった。

先生は「日本浪曼派」の重鎮として知られた方だが、当市にゆかりの深い蔵原伸二郎を見いだして、詩壇に送り出された方でもある。

文芸評論家川村二郎は読売新聞(10月5日夕刊)に、先生の追悼文をしるし、その「国宝論」(金閣寺が焼けたとき発表されたもの)に触れ「その悲しみは」「貴重な〈国宝〉〈文化財〉が失われたということに対して」というより「むしろ文化財を大切に保存し博物館に納めようといった近代文明の発想こそが、法隆寺の金堂をも焼いたので」「心の内なる国宝、伝統に養われた情緒や美感を放棄して「国宝」はありえない、そう保田与重郎は語っている。」という。氏は「これは過激な意見である。」としながらも「われわれの文明が目に見えるものの得失に執着し続ける限り、このはげしい声のひびきも力を失わない」と書いている。

私たちは、歴史というものにたずさわるとき、ともすれば、ただ「遺跡」「遺物」という"物"にのみ心を奪われやすいことに、常に思いを致すべきであろう。

編集委員町田多加次

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