伝え聞く前ヶ貫の由来

地名姓氏編担当調査員山岸雄司

現在の征矢神社本殿

現在の征矢神社本殿

その昔、岩淵・前ヶ貫・矢颪は一村であったが、後世になって分かれて三か村になったともいわれている。

天慶(九三八〜九四七)のころ、平将門が青梅の三田において乱をおこし、常陸の国香を滅ぼして、その勢力まさに天をつき、武蔵の国を押領した。

その戦いのとき、将門が岩淵の八幡神社のあたりから三本の征矢(そや)を放ち、戦勝を祈願したといわれ、そのうちの一本が前の山をぬけて前ヶ貫の地に落ち、それを征矢神社として祀り、前ヶ貫の地名の起こりとなったという。

また、一本の矢が落ちたところが、いまの矢颪の地であり、矢が下りたので矢下と呼んだが、後世になって矢下風と書くようになり、さらに下と風をくつっけて矢颪と書くようになったという。南飯能病院のあたりが小字名「矢の根」である。

さらに残る一本は川寺の地に落ち、村人がそれを祀ったのがいまに残る射宮司(おしゃもじ)様であるという。

前ヶ貫については、新編武蔵風土記にも「この村の異名を塩川と唱う」とあるように、前ヶ貫というより「塩川村」と呼ばれて、それが相当ながく続いたものらしい、それについては、前ヶ貫の地内に、藤原秀郷側の豪族で、平経基が将門追討のための陣を置いた。ところが、一夜にして馬具が赤く鋳びてしまったという。いまの大蓮寺あたりを流れていた川がそれで、その水が多分に塩気を含んでいたのでそうなったという。土地の人はこれを「ショウガッ川」と呼び、そのあたりが「馬具錆(まぐさび)」としていまに残る小字名である。

現在でも、その辺で農作業に使った道具は錆びが甚だしいという。

ちなみに前ヶ貫の小字名を挙げてみると次のとおりである。

伝説を裏付けるような地名がいまも残り、使われている。

新川辺・南川辺・堰口・坂ノ上・堂坂・砂ノ宮・堀添・内出・ヤハタ・コトウ・登り戸・大平・寺峰・宮ノ脇・中堀通・中通り・中丸・マグサビ・大クガケ・雪ノ平・西ハケ・芝口・川端・宮ノ下

地名の調査

去る五月二十四日に吾野・北川地区の地名調査を行いました。

地理や地形のわからないところを、地元の鴨下近造さんに案内していただき、岩井沢からぶな峠への旧道を歩きました。

木のかげに忘れられたように馬頭観音があったり、現在の道とは離れたところに山伸があったりして、地名を考える上に大変参考となりました。

貴重な時間をさいて案内して下さった鴨下さんには、この紙上をおかりしてお礼申しあげます。

これからも各地区におじゃまして調査を実施する予定ですがいろいろお聞きすることがあろうかと思われます。

その際にはどうかよろしくご協力のほどおねがいいたします。

いまのような墓石は、元禄頃からつくられるようになったものだが、安山岩のものは伊豆から、小松石のものは真鶴半島から、とはるばる運ばれたものである。浮力を利用して、筏の下につるしてきたもので、それを船で引き川越の新河岸に着いたのを陸路運んだものだという。(島)

編集後記

私たちの住んでいる土地の名称は、いつのころ、どういう理由で付けられたものか判然としないものが多いようですが、それらが明らかにされれば、おのずと土地の歴史が浮き彫りにされてくるはずで興味深いものがあります。

しかし、それはたいへん困難な作業のようで、まずは文書によってそれを調査していくことは不可能で、伝承、あるいは社寺の縁起にそれを求めるわけでしょうが、そういうものは、ともすれば"こじつけ"になりやすいと思えます。とはいえ、それはそれなりに理由のあることであり、面白くもあります。

地名の由来の解明には、漢字名からの類推と、音韻、発音からの検討の方法があろうかと思いますが、例えば、本号の前ヶ貫など、山岸氏は前者を追い、加藤一氏などは「ヌケ」に山の崩れたところの意がある、として「マエガヌケ」の転とみておられるようです。

いずれにしても、最近みられる地名の安易な付け替えは、慎重な考慮の上になされなければならないものでしよう。

編集委員 町田多加次