庚申塔と馬頭観世音

(民俗編担当調査員)
島田欽一

笠縫八高線踏切際の庚申塔

笠縫八高線踏切際の庚申塔

街中の旧道や野道など歩いていると、まるで置き忘れられたように、ぽつんと立っている庚申塔や馬頭観世音の塔を見かけることがある。

ところが、どうかして、そこに季節の花などあげてあるのを目にとめたときは、なんとなくひととき心休まるものである。

ひとくちに民間信仰といっても、その領域はまことに広い。もともと渡来の仏教にしてからが、民問信仰の上に根を下ろし、それをとりこんでいかなければならなかった。神道もまた然りである。やがてそれが大きな教団となっていっても、なお民間信仰は庶民のなかに生き残ってきた。それがさまざまに形を変えたりすることはあったが、現代人の心にも、なお生きているということができると思う。 そこで庚申と馬頭観世音の信仰についてだけみるならば、ある時期にとみに盛んになった庶民の信仰に、既成の宗教もあえて迎合していったようである。願主に寺の僧の名が刻まれている、平松の老人ホームの前の馬頭観世音などがその例である。

信仰の形態にもいろいろあって、村をあげて祀る、いわゆる地縁形が、「村惣中」や「村中」であり、特定の集団による「講中」もあるかと思えば、屋敷神的なものまでさまざまである。

いま、市の全域についてこれをみると、馬頭観世音の信仰は概してまんべんなく行き渡っていたようであり、それは馬持ちだけの信仰ではなかったことがわかる。庚申塔は精明地区の双柳と加治地区に圧倒的に多い。そのことは、民間信仰を広めていった行者などの行き来した道すじ、大山街道と無縁ではないということがわかる。これらは江戸時代の中期に造塔が盛んに行われたわけだが、このあたりのは、ややおくれて安永ごろからの造立が極めて多い。それは、当時全国に疫病が大流行したり、庶民の窮乏も目に余るなどのときであり、そうした時代背景も抜きにして考えることはできない。

辻(つじ)という字は、いま当用漢字でなくなってしまったが、村外れのつじに立っているそれらの塔は、そのほとんどが道しるべの役も果たしていた。その点極めて合理的であったといえよう。

近世になって、庚申待の場合は、その本来の信仰形態からだんだんかけ離れていって、庶民歓楽の場や談合の席となってきたものであるが、とにかく、わたしたちの祖先が、さまざまな願いを託し、時によってはそれにすがってきたのが、道ばたやつじに立っている庚申塔や馬頭観世音である。その前に立ってじっと目をつむると、塔の背後にふたたびかえることのない村の風景があり、人によっては、遠いふるさとの山が浮かび、川が流れているのをみるに違いない。

いまとりかかっている市史の民俗編では、こうしたことも含めて、むかしから現代に至るまでの庶民の生活のありのままを書きつづり、後代に伝えていこうとしている。

調査についてお願い

「市史」をつくるために、調査員や事務局員が市内各所をおたずねして、資料収集に当たっております。

いままでも多くのみなさんのご協力をいただいておりますが、一層のご協力をお願いいたします。


編集後記

飯能河原に沿った川岸の道を歩くと、かつてここがメーンストリートであったことがうなずける。観音寺、諏訪神社、能仁寺への参道が、急な石段や坂道のまま、この道から北へ向けてひっそりと残っている。対岸の大河原から飯能河原へくだる道やぷが突然藪の中に消えているのも、むかしその先に名栗川をまたいで橋があったろうことを語っているが、渡って北に抜ける旧道は、今は家並みの下に消えていて、西中へ上る道で、また現れる。そんな、道の変せんの跡も、調査が進み次第に明らかになっていくだろう。 小さなところに、意外な歴史が跡をとどめている。小さな疑問であっても、ぜひ係まで持ち込んでいただきたいものである。

編集委員 町田多加次