江戸城の薪炭



江戸城の薪炭(1)

埼玉県内の市で一番広い面積を有する飯能市は、その3分の2が奥武蔵自然公園として指定されている山林地帯です。

この山間部を後背地として発展してきたのが、現在の市街地で、谷口集落として名栗谷津、吾野谷津、南高麗谷津などで生産する物資を集め、江戸(東京)へ売りさばく中継地でした。

山の人達は林産物を飯能で売り、その金で食糧や生活物資を買っていました。

1年の半分、あるいは3分の1ぐらいしか自分達が食べる食糧を生産することができない土地柄であり、いきおい山林資源に生活をたよることになったのでしょう。坂畑を耕作するかたわら、ほとんどの人が林業に従事していたもようです。

今から20〜30年前までは、どこの家庭でも暖房や調理に薪や炭を使用しておりましたが、これらは建築用の木材などと並んで、林産品の主なものでした。むしろ木材などよりも、薪炭のほうがより私たちの生活に、かかわりが深かったといえます。

時代によって差異がありま一すが、一般的に薪炭の生産は林産品総量の3分の2であったなどと申します。それほど需要があり、大消費地であった江戸へ飯能や名栗の山方から多くの薪炭が供給されておりました。



江戸城の薪炭(2)

ここで薪と炭を扱っていた南村の武左衛門と上井上村の惣右衛門という2人の人物に登場してもらうことにします。

武左衛門とは元禄から享保(1688〜1735)に薪を商売としていた人で(南村文書)、惣右衛門とは宝暦から明和(1751〜1771)にかけて、炭を扱って活躍していた人でした。(大野喜資家文書)

一時代ずれている2人ですがいずれも江戸城へそれぞれの品目を納めているという共通性と南村と上井上村という、至近の場所で同じような仕事をしていたという、当時の様子を知る上で大変重要な2人であるといえます。

まず最初に武左衛門に登場してもらいます。

「古来は武州山方筋で、9万石余の村々から江戸御城様へ直に附送り(薪を)上納してきましたが、だんだん運賃なども多くかかるようになり、村々が相談して請負人をきめて納めるようになりました。また古来は山方で薪を出し、里方は伝馬を出すことになっておりましたが、双方が相談して請負人に金で払うことにきめたと伝えられております。」この請負人が武左衛門というわけですが、彼は祖父の代から請負人として専業化したもののようです。

以下次号へ



江戸城の薪炭(3)

武左衛門が請負っている地域は、今考えても大変広い範囲で三田、加治、高麗、毛呂、玉川などの地名が見えます。

もちろん1人で全部請負っていたのではなく、同業者が何人かいたようですが、それにしてもずい分広い地域であったようです。また江戸城へ納めるべく命ぜられている村は、多摩郡、秩父郡、高麗郡、入間郡、児玉郡、比企郡の2百50余の村々でした。

この村々から代金をうけとりそれを元手にして山を歩き、買い集めて江戸へ送りつけるという仕事は、想像以上に大変な仕事であったろうと思います。

「御本丸御舂屋へ納める御用爪木(薪)は拙者祖父兵右衛門の代から80余年間請負ってきましたが、近年山での買出しが値上りした上に、諸色高値になり毎年損金がでるようになってしまいました。」と願書をしたため、@山元値段。A山元秩父郡村々より我野町(現在の吾野で武左衛門の居所)までの運賃。B我野町より御舂屋までの運賃。C問屋場に荷物を預けておくときのつまぎつめ保管料。D爪木詰日雇賃銭。このようにこまかに見積りを出して、代官所などとの交渉に当りました。

以下次号へ



江戸城の薪炭(4)

ここで納め先である江戸城の御舂屋について調べてみたいと思います。

場所は江戸城内の北端にあって、いまでいうと倉庫のようなものであったようです。

江戸幕府の職制の中に賄頭というのがありますが、これは将軍の御膳や飲食物などを改める役職でした。その配下に舂屋蔵役、薪方世話役、舂屋膳方などの役人がおりました。

簡単にいうと江戸城の台所の仕事をしていたところということになると思います。

そこが武左衛門の納入先であったようです。

この舂屋に納めるために、前号の五項目の手配や地元同業者との打合わせ、江戸問屋との交渉と東奔西走したようです。

享保ごろ(1720ごろ)になると、この地方の薪を切りつくしたのか、あるいは規模を拡大したのか、伊豆や箱根方面からも仕入れをしているようです。「豆州君沢郡土肥村忠兵衛爪木大分有之候問在所にて調え下請したいとのこと。」

このようにして江戸城の燃材は、まかなわれていたのです。

つぎの号からは上井上村の惣右衛門に登場してもらい、木炭についてみていくこと仁しましょう。



江戸城の薪炭(5)

飯能の隣村である名栗村には御林(江戸幕府が直接支配する山林)がありました。

そこでは前号までの薪と同じように江戸城で使われていた木炭の生産をしておりました。

いまでも炭谷入、杓子小屋、忠右ヱ門小屋などという炭焼きに関係がありそうな地名が残っております。

もちろん名栗や飯能では一般家庭で使用する炭も生産していたのですが、ここでは江戸城に納めるための炭を請負っていた上井上村の惣右衛門を中心に話を進めます。

日記風に書かれた惣右衛門の行動は、前号までの武左衛門と同様範囲が大変広いものです。

下名栗村に会所があり、そこを中心に坂石、長沢、飯能、所沢、川越、六郷、青梅、江戸などを行き来しております。

以下日時を追って惣右衛門の足跡をたどってみたいと思います。

29日(宝暦13年〈1763〉2月)飯能へ出て縄を買入れる。

一、縄三百四拾八房

此代壱メ八拾文

この縄は炭俵をつくるためのものと思われ、後述する出荷量に見合うほどの数量です。



江戸城の薪炭(6)

「未(宝暦十三年)の八月より十二月廿九日まで

一、御炭高四千九百三十俵

三十俵 所々送り付

内七十五俵 小石川分引

二百五十二俵 飯能下売分

引残り

四千五百七十三俵

内二百八十俵中村屋送り付

残四千二百九十三俵 上納分

此内初納め千俵は減俵なく上納二千俵のうち二百十俵は減有

(中略)

未七月 御前金三百両

未十二月廿四日 御前金三百二十両

二口合 六百二十両

(中略)

残高 金二百十六両一分ト鐚八百二十一文

外箸木代五両

およそ半年間で5千俵足らずの量を焼出していたようですが江戸城へ納めるだけでなく、飯能の業者にも売りさばいたようです。また「減俵なく」とか「減有」との記載の意味が分りませんが、想像するところ貫目のことであろうと思われます。

箸木代と書かれていることから将軍や近侍の人達が使っはした箸も、この地方から納められていたのでしょうか。

以下次号へ



江戸城の薪炭(7)

「十一日(宝暦十三年四月)伊奈半左衛門様内小崎孫左衛門様が明十二日に御林木数改めのため来られるとの廻状が来る」

御林は幕府林奉行に管理されており、配下の役人が、伐木、製炭などを巡察するため、たびたび現地を訪れました。

「 是迠

米惣〆百六俵 川越、飯能より

外四俵 原市場兵右ヱ門殿

右之通り四月十七日までに買い上げる」

元請人が米を買い上げ炭焼きに従事している人達に支給していたようです。

「十一日(六月)藤右ヱ門同道にて帰り、いわどのにてヘビにくわれる」

下名栗の会所から上井上に帰る途次、吾野の岩殿でヘビにかみつかれたようです。惣右ヱ門は長沢までたどりつき、その日はそこに泊まり、翌日迎えの馬を呼んで家に帰ったようです。

「八日(七月)朝出立飯能へ寄り四ツ谷まで着き泊る。」

この時の江戸出府はお盆を迎えるに当たり、役人へ中元にいったようです。

そうめん、鮎、粉などが持っていった品物でした。

「盆前は何方も閨敷時分、御炭も急に御用もなく」

気軽なあいさつの旅であったようです。

以下次号へ



江戸城の薪炭(8)

「原田新蔵様去る四月十九日(明和元年〈一七六四〉)に申され候は、さてさて是は淋しい事退屈しはてた。さらば慰めに悪口でも言って遊びましょう。だが皆が見ると腹を立て叱るだろうから直に引さいて捨てましょう。

炭は有問金はないまのくるしさよ十方(途方)にくれてあたま割合

赤くなる麦苅よりも金をかる(借りる)くめん十めん青くなる顔

炭竈にむねのほのおの立そいて煙くらえん有間山かな」

林奉行の下役であった原田新蔵は、たびたび巡視に訪れたようですが、当時の役人を彷彿とさせるように、こんな退屈しのぎの戯歌をつくり、働いている人に見られるとおこられるから破って捨てようということです。

おそらく惣右衛門が供をしていて書き写したものでしょう。

「廿八日(七月)御炭御舂屋へ入れ候とも御林方御役人衆御立合これなきにつき御舂屋御役所引申候」

林奉行の下役が立ち会いの下で、御番屋へ納入していたのでしょうが、その役入が来ないので、舂屋の役人が帰ってしまったようです。

遠路を運んで来て一日延ばされることは、大変腹立たしいことだったにちがいありません。

戻る