飯能の製紙



飯能の製紙(1)

埼玉県の地場産業として、誇れる産品の一つに、小川町の和紙があります。

県内で和紙といえば小川、小川といえば和紙を連想するように、産出量といい、品質といい大変優れたものであり町の経済を支えて来、また支えていくであろう代表的な地場産業の一つです。

しかし、ここでお話しするのは小川町のそれではなく、飯能市域でかつて行われた紙すきのことです。

飯能で紙の生産が行われたと聞くと、不思議に思われる方が居られるかも知れませんが、江戸時代の中期ごろまでは、おそらくは小川町以上に多くの紙を生産していたもののようです。

紙が私たちの生活に及ぼした影響には、はかり知れないものがあります。

住環境(障子、唐紙など)はもちろん文化的な面で考えれば、この地方で産出されなければ私達先祖の生活などは今日に伝わらなかったかも知れません。



飯能の製紙(2)

飯能地方で紙の生産がいつからはじめられたのかということは、まだはっきりと分っておりません。

正倉院に保存されている書物の中に、宝亀5年(7百74)図書寮解「諸国未進并筆事」というのがあるようですが、その中で「武蔵国紙四百八十張、筆五十管」とあります。

これは朝廷に納めなければならない紙と筆が未納であるという内容です。

この文書では、武蔵国のどこで生産していたのかは分りませんが、とにかく古い時代から武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)で紙が生産されていたことは確かのようです。

時代はくだって江戸初期、正保期(千6百44〜千6百47)につくられた「武蔵田園簿」という書物から、紙の生産をみていくことにしましょう



飯能の製紙(3)

武蔵田園簿には、武蔵国の村々の名、その村の支配者、村高(村の生産高)などが書かれております。

また、その中に紙舟役(紙を漉くための舟にかけられる税金)の額も記されており、その額によって当時の製紙の量を知ることができます。

それによると武蔵国22郡2千4百15か村のうち、紙舟役を納めている郡村は6郡67か村を数えます。そのうちわけはつぎのとおりです。

郡 名 村数 紙舟役高

多磨郡 24か村 21貫2百95文

入間郡 8か村 5貫3百25文

高麗郡 6か村 17貫5百文

比企郡 19か村 19貫9百89文

男裳郡 1か村 1貫8百50文

秩父郡 9か村 16貫3百48文

計 67か村 82貫3百7文

これらの村々は、いずれも山間の村で、傍らに河川があるという地形で、原料である楮の裁培にも適しているという紙生産に必要な条件を具えた地形の村です。



飯能の製紙(4)

武蔵田園簿の時代に、飯能市域でどのくらいの紙を生産していたのかを知るために、現在の小川町域と飯能市域の紙舟役の比較をしてみました。

小川町 飯能市
旧村名 紙舟役 旧村名 紙舟役
上古寺村 7百50文 唐竹村 9百43文
下古寺村 3百文 日影村
(旧原市場村のうち)
9貫8百38文
腰越村 5貫4百文 苅生村 2百18文
青山村 1貫3百文 長田村
(永田村)
百47文
角山村 2百50文 白子村 百43文
下里村 百50文 下我野村
(旧東吾野村のうち)
6貫2百11文
竹沢村 1貫8百50文 上我野村
(旧吾野村)
9貫3百73文
計 10貫文 計 26貫8百73文

この表で見るかぎり、武蔵国22郡中の総紙舟役中の実に31%強を現在の飯能市域の村々が納めていたことになります。

また、小川町のそれをはるかにしのいでいたことにもなります。 このように多くの紙を生産していた飯能地方が、3百年余を経た今日、何故一軒の紙を漉く家もなくなってしまったのでしようか。



飯能の製紙(5)

正保からのちに各村に割付けられた「年貢可納割付状」(納税通知書)によると、この紙舟役の額には変化がなかったもののようです。

当初は舟数によって決められたようですが、年を経るに従い、恒常的な税金として課されていったのでしょう。

なお、正保時代の7か村の外に、久須美村(天明7年百43文)、大河原村(寛延元年72文)、上直竹村上分(寛政11年5百77文)というように江戸時代中期に増加をみせております。

飯能各地で紙の生産が盛んであった様子がうかがい知れます。

しかし、このように隆盛であった飯能の紙生産も、江戸時代後期になると、だんだんと衰退の一途をたどっていきました。

これには、いくつかの原因が考えられますが、大きく分けると、資本の問題、商品流通の問題、立地上の問題等が上げられます。



飯能の製紙(6)

紙漉きも、農村型手工業生産から、近代型産業へと脱皮するためにはどうしても設備の改善、原料の大量購入、流通のための問屋等への資金と現在で考えても多くの資本を必要とします。

上赤工村、下赤工村では、宝暦2年(干7百52)に紙漉きのため、それぞれ38両、32両という莫大な借金をかかえることになりました。

「当村は前々から紙漉きを行ってきており、その税金も納めて参りました。しかし、最近ではだんだんと困窮してきて、元手金にも困るようになってしまいました。紙を漉く人も減少してきていますのでもとのように紙を漉くために元手金を貸して下さい。」

年に1割の利息と漉き出した紙を年に4干8百枚ずつ納めるという約定でした。

また、12年間のうちに元金まで返済するという約定は、関連文書がないためにどうなったのか不明ですが、とにかく大変な借金をしたものです。



飯能の製紙(7)

借金をしなければ経営ができなくなったのは、流通の問題も大きかったろうと思われます。

大消費地であった江戸への販売は、自由に行われていたようですが、文化10年(1813)に江戸十組問屋(絹、太物、鉄、畳、酒などの商品の専売組織で紙も入っていた)が結成されてから、紙の販売も自由にできなくなってしまいました。

その辺の事情を明らかにする資料は、まだみつかっておりませんが、上赤工村、下赤工村などの資料からそれをうかがうことができます。

おそらく、この時期から飯能の紙漉きは衰退していったのだと思われますが、紙漉きに適地だという条件の外に「当郡はごく山中で諸作実らず食べるものに不足するので農閑に」紙を漉いてその利益で食糧を買っているという南村から代官に出された文書で知れるように、他に収入の道があればそれでも良かったのかも知れません。



飯能の製紙(8)

農業の間に紙を漉くということは、飯能の山方の村々は皆同様です。

この余業がなければ、年貢を納めることも、食べていくことさえも困難であるような土地条件です。

そこで、他に生活できるような仕事を見ていくと、男は農業の外に薪炭の製造、販売木材の伐採、搬出など、女は養蚕、絹織物などが各村の「村明細帳」(村の様子を書き記した文書)に見えます。

日用(日傭)という賃労働によって、現金収人を得て生活していくというありさまが山方の人達の大方のくらし向きでした。

これから考えると、資本もいらず、仲買いとの面倒な交渉もいらない、しかも大消費地の江戸へ自由に販売できる薪炭や木材の仕事に移向していったものと考えられます。



飯能の製紙(9)

今では全くなくなってしまった飯能の紙漉家の歴史をたどってきましたが、みなさんの地区にも「かみや」という屋号の家があるところがあります。

江戸時代で紙漉家が全部なくなってしまったのではなく大正時代ごろまでは、各地区に僅かに残っていたようです。

それらの家が、家号として留めているのがこの「かみや」という屋号です。

また、生産された原料の楮を、大正時代に小川に売りに出したという古老の話も聞きました。

飯能の紙の歴史は、まだまだ多くの分らない点がありますが、資料をお持ちの方、これについて知っておられる方は、市史編さん係へお教えください。

飯能の長い歴史の中で、一つの産業が全く姿を消してしまったということは、特筆すべきことであり、なお調査を進める必要がありますので、ご協力をお願いいたします。

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