江戸時代組合村



江戸時代組合村(1)

寛政から文化ごろになると、無宿人、博徒、遊民などが横行して、関東地方の治安は乱れていたようです。

それというのも、支配者が小さい単位で村を統治していたために、取り締まりが充分にできなかったからでした。

そこで幕府は「関東取締出役」という警察機関を設置して、関八州(武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、相模─東京、神奈川、埼玉、群馬、栃木、茨城、千葉)の取締まりに当らせました。

この出役の活動を有効にするために、文政十年(一八二七)に改革組合村を関東一円につくらせて、治安の維持とともに、農民統制にも役立たせたのでした。

この組合は、四十、五十箇村を一つの単位として大組合としその中の三〜六箇村を小組合として組み合わせ、大組合には大惣代を数人、小組合には小惣代一人を代表者として選び、その運営に当らせました。

そして、それぞれの組合に寄場(役所)をつくりました。



江戸時代組合村(2)

飯能地域の村々は、つぎのような組み合わせによって、「組合村」をつくっていました。

坂石町分寄場組合

白子村、平戸村、虎秀村、下井上村、上井上村、長沢村、南村、坂石町分村、坂石村、坂元村、南川村、北川村、高山村、上名栗村、以上十四箇村

下直竹村寄場組合

下直竹村、上直竹村、下成木村、上成木村、北小曾木村、南小曾木村、富岡村、下畑村、上畑村、苅生村、中藤村上郷、中藤村下郷、中藤村中郷、下赤工村、上赤工村、曲竹村、原市場村、唐竹村、赤沢村、下名栗村、以上二十箇村

(寄場位置不明)

下大谷沢村、中沢村、大谷沢村、田木村、馬引沢村、芦苅場村、以上六箇村(この組合については、資料がないため大組合に属している村名が不明ですが、ここに上げた六箇村は多分小組合であろうと思われます)



江戸時代組合村(3)

飯能村寄場組合

小岩井村、小瀬戸村、久須美村、大河原村、永田村、横手村、久保村、台村、高岡村、高麗本郷村、日向市原村、梅原村、栗坪村、清流村、野々宮村、猿田村、新堀村、平沢村上組、平沢村中組、平沢村下組、上鹿山村、中鹿山村、下鹿山村、鹿山村、楡木村、宮沢村、青木村、中居村、下加治村、小久保村、平松村、川崎村、下川崎村、双柳村、野田村、上岩沢村、下岩沢村、川寺村、笠縫村、阿須村、矢颪村、落合村、前ヶ貫村、岩淵村、中山村、真能寺村、久下分村、飯能村、以上四十八箇村

以上のような組み合わせで、飯能地方の「組合村」がつくられましたが、この組織がどのように機能したのか、どんな目的でつくられたのかを、具体的な資料をもとに考えていきたいと思います。



江戸時代組合村(4)

「関東取締出役」(八州廻り)という役人を決めた幕府は、直轄領、大名領などの区別をしないで、ひと月に1回ぐらい、関東一円を巡視させました。

そして、改革の法律ともいえる「御取締御箇条」を触れ出しそれにより取り締まりを行ったのです。

これは前文4か条と本文40か条からなり、前文は主要点を述べ、本文は具体的な取り締まりの内容が書かれています。

矢颪の中村正夫氏が所蔵されていた「御取締帳」によって、その条文のいくつかをぬき出してみましょう。なお、これは筆者が分りやすく読みくだいたものです。

一、近ごろ世上同様とはいいながら、とくに関東筋の村村は神事、祭礼、婚礼、仏事などを、はでに行っている。これはよろしくないことなので質素、倹約を心がけること。

一、近ごろ農民どもは、心得ちがいで、農業をおこたり、商売を熱心にしているようだが商売をすると自然にはでになるので良くない。新らしく商売を始めることは許可しない。



江戸時代組合村(5)

一、村々で強訴・徒党(仲間を多く集めて上に対して反抗すること)などをくわだてる者がいたら、出役、領主、地頭などへ届けでること。

一、旅館の宿泊代金は百八十文休憩は七拾文以上になってはいけない。それ以上安ければいくらでもよい。また、食事は一汁一菜(一品の汁と一品の副食物)にするよう申し合わせをすること。

一、無宿人(一定の住居や正業を持たない人)や火つけ、盗賊、人ごろしなどの悪者が村へ立ちまわったら、そこに居る人達で申しあわせてつかまえること。もし、小人数でつかまえることができないような場合には、小組合の村々へ呼びかけて、手勢を集めてつかまえること。また、それにかかった費用は、組合村々で割り合い負担すること。

現在の生活では想像できないようなお触れが、関東の村々のすべてへ出されたのでした。



江戸時代組合村(6)

この条文でも分るように、幕府の政策は農民を土地にしばりつけておくことが基本でした。

しかし、江戸時代中期から商品貨幣経済が盛んとなり、幕府の強い政策にもかかわらず、その時代の流れには抗し切れず、だんだんと幕府の崩壊へと歩を進めていきました

飯能地方も畑作が主な土地柄であったために、畑作だけで生活することは難しく、田作地帯と比べて年貢なども早くから金銭で納めておりました。

したがって田作地帯よりも早く、貨幣経済の影響を受けて、進取の精神(進んで事をなすこと)が培われていったものでしよう。その後の「組合村」は、取り締まりのためだけではなく幕府からの下達機関として、いろいろなお触れの徹底に利用書されました。

その後機能とは別に明治、大正、昭和と時代が移り、組み合わせも離合集散をくりかえして、現在の飯能という行政区域となってきたのでした。

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