村の生活─高掛り



村の生活─高掛り(1)

前号まで、年貢と村入用という村人が負担しなければならない費用について書いてきましたが、この外に臨時負担とでもいう高掛金(たかがりきん)の割り当てがありました。

高掛りとは付加税のことで伝馬宿入用、六尺給米、蔵前入用が高掛三役と呼ばれ、年貢とともに納められておりました。

ここでお話しするのは、この三役のほかに領主から臨時に割当てられた高掛りで、この文書は中山の関根尚之さんが届けて下さったものです。

安永七年(一七七八)四月に飯能・久下分・真能寺・中山の四か村村役人の連名で、領主である黒田豊前守の出先役所「岡御役所」へ出されたものです。

徳川家康の忌日に日光東照宮で行われる四月大祭は、将軍みずから霊廟に参詣することがたてまえですが、莫大な費用を要するこの社参は幕府財政の窮乏によって、しばしば大名や高家に代参をさせることになりました。



村の生活─高掛り(2)

「此度、日光御名代被為蒙仰ニ付御領分村ニ江高掛金高百石ニ付金壱両宛被仰付奉畏侯」(このたび日光へ代参することになったので、村の総収穫高の百石について一両ずつ領分の村々は負担せよということですがかしこまりました。)

飯能村周辺の領主であった黒田豊前守が代参を命令され、そのために領地の村々へ高掛金が割当てられました。

しかし、この四か村(飯能・久下分・真能寺・中山)は「黒田家の墓所があるような由緒ある村々であり、今までにいろいろな特別負担をしてきました。どうか、この高掛金を半減してください。」とつづきます。

四か村の名主、組頭、百姓代が連名で捺印して出された嘆願書はどのように処理されたのでしょうか。

この高掛りは黒田藩にかぎらず、ことあるごとに多くの村々に割当てられ、そのたびに村人は驚き、とまどい、嘆願し、やがて何とか工面して納入していたもののようです。

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