いかだ流し



いかだ流し(前)

材木を組んで川瀬を下る筏師のいなせなスタイルは、実際に見たことのない人達にとっても、何となく飯能の昔を彷彿とさせるものがあります。

この「いかだ流し」がいつごろ始まったのかは、まだはっきりと分りませんが、今までに発見された文書の中では宝暦七年(一七五七)のものが、もっとも古いものです。

現在の飯能市街から西の地方は、すべて山岳に囲まれて、平坦地があまりありません。

従って農耕地も少なく、農産物の収量はわずかなもので、自分達が食べる量の半分ぐらいしかとれなかったようです。

そこで、豊富な山林資源を利用し、木を伐採して江戸へ搬送し、売却してその金で年貢を納め、また身過ぎにも充てました。

そんなことから入間川、高麗川筋のいかだによる交通は、山付の村にとっては生命線でありました。一方、下方の村では、田に水を引くためにたくさんの用水堰をつくっておりました。(つづく)



いかだ流し(後)

飯能河原から黒須(入間市)までに七つの堰があり、いかだを通すためには、そのたびごとに堰を一部分開けなければなりませんでした。

そこで「杭木代」として、幾分かの通行料を堰管理の村へ支払っていたのでした。

しかし、堰だけでなく漁猟留場、水車、普請所などと川筋にはいろいろの障害物があり、トラブルがたえませんでした。

現存する古文書も、ほとんどが争いのことが書かれており、いかだによっての山方の生活がいかに重要であったかがわかります。

いかだには木材そのものだけでなく、上乗せの荷物として杉皮、炭、板貫(加工して板材にしたもの)なども運ばれました。

時代は、明治から大正へと移り、鉄道、自動車の発達によって、千住まで四日もかかった所要日数が縮まり、数量も多く運べるようになりました。いかだで流す必要がなくなり、大正十年頃には、全く姿が見えなくなったということです。

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